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Sonny Boy Williamson II

2008.06.01.Sun.23:57
Sonny Boy Williamson II (サニー・ボーイ・ウィリアムスンII)

1899年~1909年?12月5日、ミシシッピ州グレンドーラ生まれ
1965年5月25日、アーカンソー州ヘレナにて死去

本名はアレック・フォードで、ライス・ミラーと呼ばれることが多い。

サニー・ボーイ ?世に負けないくらい才能に恵まれ、神経質なハーモニカ、
ビブラートのかかった独特の歌声、痛烈な歌詞を提供した。



6・7歳頃からハーモニカを吹き始め、1930年頃まで教会音楽だけを演奏していた。

ある時 継父と喧嘩をした事をきっかけに家を飛び出し、アーカンソー州ヘレナに移る頃から
彼の本格的な音楽活動が始まる。

1930年代のヘレナではギターを弾きながらハーモニカを吹き、さらに足でドラムを叩くという、大道芸人スタイルで日銭を稼いでいた。
ミシシッピ州とアーカンソー州を一帯を放浪し、その過程でエルモア・ジェームス、ブラインド・レモン・ジェファーソン、ロバート・ロックウッド・ジュニアらブルースマンと出会う。
当時彼は、リトル・ボーイ・ブルーという芸名で活動していた。時折 ロビンスヴィルに出かけロバート・ジョンソンとよくセッションをしていたようだ。

1941年11月、アーカンソー州ヘレナのKFFA局で、ロバート・ロックウッド・ジュニアとともにレギュラー出演する「キング・ビスケット・タイム」というAM放送の15分番組が始まった。
彼がサニー・ボーイを名乗り出したのはこの頃であり、番組のスポンサーだったインターステート・グロサリーのオーナー、マックス・ムーアは彼がその名前を使うことを提案したと主張している。
「キング・ビスケット」と言うのは、黒人の間で人気のあったトウモロコシ粉の名前である。
毎日正午になれば、わずか15分ながら生演奏が聴ける。しかも当時のブルース・シーンの先端にいたサニーボーイと相棒のギタリスト、ロバート・ジュニア・ロックウッドの情報が手に入る。
「番組に間に合うように走って帰った」という証言もあるほど、その魅力には想像以上のものがあった。
レコードは出していなかったが、この番組出演により南部一帯で彼の人気は高まっていく。



彼らの宣伝した「ホワイト・コーン・ミール・ミックス」の袋には、ハーモニカを持つ
サニー・ボーイの絵が描かれており、当時人気をうかがわせる。

1951年、ピアニストのウィリー・ラヴらと共にミシシッピのトランペット・レーベルに、
初めてのレコーディングを行う。
エルモア・ジェームスらをバックに、ブギ・ナンバーを中心としたサウンドを披露している。

1955年、シカゴのチェス・レコード傘下のチェッカーと契約。
この頃から拠点も南部からシカゴへ移している。
同年、チェッカーにおける初セッションでレコーディングされた"Don't Start Me To Talkin'"がR&Bチャートの3位を記録する。その後も"Keep It To Yourself" (1956年; 同16位)、"Help Me" (1963年; 同24位)とヒットを生んでいる。
チェッカーのウィリアムソンはトランペット時代よりもぐっとモダンなサウンドとなり、また彼のハーモニカのプレイは、シカゴ・ブルースにおける基本形として、多くの後続プレイヤーに影響を与えた。

1963年、アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル出演のため、初めてのヨーロッパ・ツアーを行った。

1964年にも再度同フェスティバルに出演した。この間、イギリスでアニマルズ、ヤードバーズ、ジミー・ペイジとレコーディングを行っている。

1965年5月25日、再びキング・ビスケット・タイムに出演するためヘレナに戻っていたが、心臓発作により他界した。

亡くなった直後にアルバムThe Real Folk Bluesが発表された。

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