高橋 竹山
2009.02.04.Wed.19:57
高橋 竹山(たかはし ちくざん)
1910年(明治43年)6月 - 1998年(平成10年)2月5日)は全盲の津軽三味線奏者。
本名高橋定蔵。一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者である。
高橋竹山の三味線を聴くと泣けてきますわ。俺も東北の生まれなんで・・。
これをBluesと言わず何がBluesやねん! と言いたいですわ。
温暖な地域で生まれ育った方には理解できないかもね~。
青森県東津軽郡中平内村(現在の平内町)小湊生まれ。
3歳の時に麻疹にかかりこれを重症化させて非常に重度の弱視となった。その後近所のボサマ(盲目の門付芸人)であった戸田重次郎から三味線と唄を習い、17歳頃から東北北部・北海道を門付けしたという。目は回復することなく50歳頃までに完全に失明した。
1939年(昭和14年)イタコをしていた女性と結婚。その妻ナヨも全盲であった。
戦争が始まってから、障害者が芸に生きる厳しさを感じて1944年(昭和19年)に鍼灸師とマッサージ師の免許を取得。一時芸の世界から身を引くが、1950年(昭和25年)から津軽民謡の神様とも呼ばれた成田雲竹の伴奏者として各地を興行。その際に雲竹より『竹山』の芸名を受ける。 1954年(昭和29年)からラジオ青森で民謡番組を担当した。
当時の津軽民謡には三味線伴奏の付いたものが少なく、『津軽じょんから節』『津軽よされ節』『津軽小原節』のいわゆる『津軽三ツ物』に加えて、『津軽あいや節』ほどでしかなかった[要出典]。成田雲竹は高橋竹山に対して、伴奏のみならず他の津軽民謡に三味線伴奏を付けるよう依頼、以後雲竹の作詞作曲した『りんご節』など、雲竹・竹山のコンビで多くの津軽民謡を発掘・制作し発表した。
1963年(昭和38年)キングレコードより史上初の津軽三味線独奏LPレコード『源流・高橋竹山の世界~津軽三味線』を発売。これによって竹山の名は津軽三味線奏者としての名声を得る。
1964年(昭和39年)雲竹の引退・隠居により雲竹・竹山のコンビを解消。
1973年(昭和48年)小劇場渋谷ジァン・ジァンに初出演。その後も定期的に開催したライブで多くの若者の心を捉え津軽三味線ブームのさきがけとなった。
1975年(昭和50年)自伝『津軽三味線ひとり旅』を出版。
1977年(昭和52年)新藤兼人脚本・監督により映画『竹山ひとり旅』が製作され、作品はモスクワ国際映画祭に日本代表作品として出版。
1986年(昭和61年)にアメリカ公演をし、これが世界に津軽三味線の名を知らしめるもととなった。ニューヨーク、ワシントンD.C.、ボルチモア、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ホノルルなど7都市で10回の演奏会。厳しい論評で知られるニューヨーク・タイムズは「まるで魂の探知器ででもあるかのように、聴衆の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」と最高の賛辞を贈った。
1993年(平成5年)妻ナヨ死去。
1998年(平成10年)2月5日、咽頭癌により平内町立中央病院にて死去。享年87。
晩年は衰えを自覚しながらも現役を退かなかったが、内弟子として師事し最後まで演奏活動を共にした竹与に二代目高橋竹山の名を譲った。他にも弟子はいたが、竹与だけが教授活動を一切せず演奏活動だけで生活していたことを認め、その行く先を心配してのことであった。
1910年(明治43年)6月 - 1998年(平成10年)2月5日)は全盲の津軽三味線奏者。
本名高橋定蔵。一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者である。
高橋竹山の三味線を聴くと泣けてきますわ。俺も東北の生まれなんで・・。
これをBluesと言わず何がBluesやねん! と言いたいですわ。
温暖な地域で生まれ育った方には理解できないかもね~。
青森県東津軽郡中平内村(現在の平内町)小湊生まれ。
3歳の時に麻疹にかかりこれを重症化させて非常に重度の弱視となった。その後近所のボサマ(盲目の門付芸人)であった戸田重次郎から三味線と唄を習い、17歳頃から東北北部・北海道を門付けしたという。目は回復することなく50歳頃までに完全に失明した。
1939年(昭和14年)イタコをしていた女性と結婚。その妻ナヨも全盲であった。
戦争が始まってから、障害者が芸に生きる厳しさを感じて1944年(昭和19年)に鍼灸師とマッサージ師の免許を取得。一時芸の世界から身を引くが、1950年(昭和25年)から津軽民謡の神様とも呼ばれた成田雲竹の伴奏者として各地を興行。その際に雲竹より『竹山』の芸名を受ける。 1954年(昭和29年)からラジオ青森で民謡番組を担当した。
当時の津軽民謡には三味線伴奏の付いたものが少なく、『津軽じょんから節』『津軽よされ節』『津軽小原節』のいわゆる『津軽三ツ物』に加えて、『津軽あいや節』ほどでしかなかった[要出典]。成田雲竹は高橋竹山に対して、伴奏のみならず他の津軽民謡に三味線伴奏を付けるよう依頼、以後雲竹の作詞作曲した『りんご節』など、雲竹・竹山のコンビで多くの津軽民謡を発掘・制作し発表した。
1963年(昭和38年)キングレコードより史上初の津軽三味線独奏LPレコード『源流・高橋竹山の世界~津軽三味線』を発売。これによって竹山の名は津軽三味線奏者としての名声を得る。
1964年(昭和39年)雲竹の引退・隠居により雲竹・竹山のコンビを解消。
1973年(昭和48年)小劇場渋谷ジァン・ジァンに初出演。その後も定期的に開催したライブで多くの若者の心を捉え津軽三味線ブームのさきがけとなった。
1975年(昭和50年)自伝『津軽三味線ひとり旅』を出版。
1977年(昭和52年)新藤兼人脚本・監督により映画『竹山ひとり旅』が製作され、作品はモスクワ国際映画祭に日本代表作品として出版。
1986年(昭和61年)にアメリカ公演をし、これが世界に津軽三味線の名を知らしめるもととなった。ニューヨーク、ワシントンD.C.、ボルチモア、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ホノルルなど7都市で10回の演奏会。厳しい論評で知られるニューヨーク・タイムズは「まるで魂の探知器ででもあるかのように、聴衆の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」と最高の賛辞を贈った。
1993年(平成5年)妻ナヨ死去。
1998年(平成10年)2月5日、咽頭癌により平内町立中央病院にて死去。享年87。
晩年は衰えを自覚しながらも現役を退かなかったが、内弟子として師事し最後まで演奏活動を共にした竹与に二代目高橋竹山の名を譲った。他にも弟子はいたが、竹与だけが教授活動を一切せず演奏活動だけで生活していたことを認め、その行く先を心配してのことであった。
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寒さで手がかじかむ時に
竹山さんの事を思います。
彼らはあのいてつく中を
さ迷って演奏したのだと。
2代目の音と全く違います。