忘れられた白人奴隷
2015.10.15.Thu.00:37
ブルースという音楽をあれこれ調べていると、何やかんやと出てきますね・・。 アフリカから連れて来られた黒人より前に、アイルランド人が奴隷としてアメリカに連れて来られていたそうです。 奴隷制というものは古代から行われていた事であるし、現代でも行われている事でもあるので、色々と思う事などありますがコメントは控えさせていただきます・・・。 m(__)m
「アメリカで最初の奴隷はアイルランド人だった」
たくさんの人達がが、その性別、年齢にかかわらず、奴隷として、アメリカにつれてこられました。 人間としての名誉、権利 ・ 自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる。 所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡 ・ 売買の対象とされ、命令に従わない時は、ひどい罰をうける。 生きたまま火あぶりにされ、従わないものへのいましめとして、その首は通りに置かれました。
この残酷な事実を、全てここで説明する必要はないですよね。 アフリカ奴隷貿易の残虐行為は、みなさん衆知の事実です。 ここではアフリカの奴隷制度についてお話ししたいのではありません。
ある文献によると、ジェームス2世とチャールズ1世がアイルランド人の奴隷を主導していたと言われています。 イギリスの歴史上、有名なオリバー ・ クロムウェルも、この非人道的な行為を助長していました。

ジェームズ二世
アイルランド人奴隷貿易は、ジェームズ2世が30,000人の牢獄者をアメリカに奴隷として売ったことが始まりです。 その後、アイルランドの囚人達は、海外在住のイギリス人入植者へ売られるようになり、1600年の中ごろには、アンティグアやモンセラットの奴隷のほとんどはアイルランド人となっていました。 当時、モンセラットの人口の70%がアイルランド人を占めたほどです。
このように、アイルランドは、すぐにイギリスの商人達にとって、もっとも大きな人間収容所となっていました。 奴隷売買当初、アメリカへの奴隷の半分以上が実は白人でした。
1641年から1652年にかけて、500,000人以上のアイルランド人がイギリス人によって殺され、300,000人が奴隷として売られました。 これにより、たったの10年間で、アイルランドの人口は約1,500,000から600,000へと減少しました。 家族は引き裂かれ、イギリス人はアイルランド人の父親が、妻や子供たちを連れて、大西洋を越えることを決して許しませんでした。 これは結果として、ホームレスの女性や子供を増やすこととなり、イギリスは、その解決策として、彼女らを奴隷として、競売に賭けるなどしていました。
1650年代になると、100,000人以上の10~14歳のアイルランドの子供達が、両親から引き離され、東インド諸島の西部、ヴァージニア、ニューイングランドへ奴隷として売られていきました。 この50年代には、約52,000人のアイルランド人 (ほとんどが女性や子供達) がバルバドスとバージニアに売られていきました。 また、更なる30,000人ものアイルランド人が高額落札者によって、輸出されていきました。 1656年、クロムウェルは、2,000人のアイルランドの子供達をジャマイカへ連れて行き、イギリス入植者へ奴隷として売っています。

今日、多くの人々が、アイルランド奴隷の事実がどういうものであったか口を閉ざしています。 ある人は、アイルランド人におこった出来事を、「年季契約奉公人」 であった、という表現をつかうかもしれません。 しかしながら、17世紀から18世紀に起こった事実のほとんどが、アイルランド人奴隷を家畜のように扱ったという、残酷な事実以外のなにものでもありません。
アフリカ奴隷貿易はちょうど同じ時期に始まりました。 その事実は、詳細に渡り、くわしく記録されています。 この記録によると、アフリカ人奴隷は、当時毛嫌いされたキリスト神学に汚染されていないということで、アイルランド人よりも高い金額で取引されており、アイルランド人奴隷よりもはるかにいい扱いだったということです。
アフリカ人奴隷は、1650年代後半、とても高価(50ポンド)なものでした。 アイルランド人奴隷はというと、5ポンド以下のとても安価に扱われていました。 もし、主人が奴隷を殴ったり、やけどを負わせたり、死に追いやったとしても、犯罪にはなりませんでした。奴隷を殺してしまうことは、その主人にとって金銭面で不利益ではありましたが、より高価なアフリカ人を殺すよりも、はるかに安いものでした。
イギリス人の主人達は、自分達の個人的な満足や大きな利益の為に、アイルランド人女性達を飼育し始めました。 また、その子供達は主人の無償の労働力となり働きました。これは、主人達にとって、大変使い勝手がよかったようで、何らかの形でアイルランド女性が自由を手に入れることができたとしても、彼女達の子供は奴隷として残されました。 結局のところ、アイルランド人の母親達は、自分達が奴隷解放されたとしても、めったに、子供を残して出ることはなく、奴隷として残っていました。
当時、イギリス人は、市場シェアを高めるために奴隷女性 (多くの場合、12歳) をよりよく利用する方法を思いつきました。 :イギリス人入植者達が、アイルランド人女性 (子供も含め) とアフリカ人男性を更なる奴隷を得る為に、飼育 (交配) し始めたのです。 この交配により生まれた、新しい奴隷 「ムラート」 はアイルランド人達よりも高値で取引されるようになりました。 また、入植者達は新しいアフリカ人奴隷を購入するよりも、ムラートを購入することで、お金を節約することができました。
このアイルランド人女性とアフリカ人男性の交配は、数十年続き、広範囲に広がっていきました。 その後、1681年、「販売目的で、アイルランド人奴隷女性とアフリカ人奴隷男性に子供をつくらせることを禁止する」 という法律が施行されましたが、それは、単に、膨大な利益を得ていた奴隷貿易会社をの収益を止める、というのが目的で施行されたものでした。

イギリスは、この残酷なアイルランド人奴隷貿易を100年以上にわたり続けました。 記録によると、1798年のアイルランド暴動後も、何千ものアイルランド人奴隷がアメリカやオーストラリアへ売られています。
長年に渡り、アフリカ人とアイルランド人への残酷な人権侵害が行われました。 あるイギリス船では、船員たちの為の、大量の食べ物を積んでいたにも関わらず、1302人もの奴隷が大西洋に投げ出されたという記録も残っています。
ここで少し疑問がでてきます。 アイルランド人奴隷は、アフリカ人奴隷が経験したそのものと同じような、恐ろしく残酷な奴隷経験をしたのでしょうか。 また、東インド諸島西部で見られるブラウンカラーの顔の色はアフリカ人とアイルランド人の祖先の組み合わせから来ているように見えませんか。
1839年、イギリスがようやく、自身が参加していた地獄への使者という役割の終焉を決め、奴隷貿易を廃止しました。 この決議の間、海賊は奴隷貿易廃止を拒んでいましたが、新しい法律の制定は、除々に、この悪夢という名の 「アイルランドの悲劇」 を終焉へと導きました。
もし、誰か、奴隷とされていたのはアフリカ人だけであったという人がいるのであれば、それは完全に誤りです。
アイルランド人奴隷は、私達の記憶から消してはいけない、悲劇の事実です。 しかし、どこでこの事実が公表されているのでしょうか。 学校で教わりましたか。 歴史の教科書のどこにその記載があったでしょうか。 どうしてめったにこの話題に触れられないのでしょうか。
数えきれないほど多くのアイルランド人犠牲者の記憶は、誰にも知られていない私のような筆者から語られていいものなのでしょうか。 彼らの歴史はイギリス海賊が意図して、あたかも起こっていなかったことのように、完全に消しさったものなのでしょうか。
これまで、アイルランド人犠牲者の誰も、その痛々しい体験を母国に帰って語りませんでした。 彼らは時間と偏った歴史書が都合よく忘れた、失われた奴隷達なのです。
「日本人 in Blighty」 さんのブログより
「アメリカで最初の奴隷はアイルランド人だった」
たくさんの人達がが、その性別、年齢にかかわらず、奴隷として、アメリカにつれてこられました。 人間としての名誉、権利 ・ 自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる。 所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡 ・ 売買の対象とされ、命令に従わない時は、ひどい罰をうける。 生きたまま火あぶりにされ、従わないものへのいましめとして、その首は通りに置かれました。
この残酷な事実を、全てここで説明する必要はないですよね。 アフリカ奴隷貿易の残虐行為は、みなさん衆知の事実です。 ここではアフリカの奴隷制度についてお話ししたいのではありません。
ある文献によると、ジェームス2世とチャールズ1世がアイルランド人の奴隷を主導していたと言われています。 イギリスの歴史上、有名なオリバー ・ クロムウェルも、この非人道的な行為を助長していました。

ジェームズ二世
アイルランド人奴隷貿易は、ジェームズ2世が30,000人の牢獄者をアメリカに奴隷として売ったことが始まりです。 その後、アイルランドの囚人達は、海外在住のイギリス人入植者へ売られるようになり、1600年の中ごろには、アンティグアやモンセラットの奴隷のほとんどはアイルランド人となっていました。 当時、モンセラットの人口の70%がアイルランド人を占めたほどです。
このように、アイルランドは、すぐにイギリスの商人達にとって、もっとも大きな人間収容所となっていました。 奴隷売買当初、アメリカへの奴隷の半分以上が実は白人でした。
1641年から1652年にかけて、500,000人以上のアイルランド人がイギリス人によって殺され、300,000人が奴隷として売られました。 これにより、たったの10年間で、アイルランドの人口は約1,500,000から600,000へと減少しました。 家族は引き裂かれ、イギリス人はアイルランド人の父親が、妻や子供たちを連れて、大西洋を越えることを決して許しませんでした。 これは結果として、ホームレスの女性や子供を増やすこととなり、イギリスは、その解決策として、彼女らを奴隷として、競売に賭けるなどしていました。
1650年代になると、100,000人以上の10~14歳のアイルランドの子供達が、両親から引き離され、東インド諸島の西部、ヴァージニア、ニューイングランドへ奴隷として売られていきました。 この50年代には、約52,000人のアイルランド人 (ほとんどが女性や子供達) がバルバドスとバージニアに売られていきました。 また、更なる30,000人ものアイルランド人が高額落札者によって、輸出されていきました。 1656年、クロムウェルは、2,000人のアイルランドの子供達をジャマイカへ連れて行き、イギリス入植者へ奴隷として売っています。

今日、多くの人々が、アイルランド奴隷の事実がどういうものであったか口を閉ざしています。 ある人は、アイルランド人におこった出来事を、「年季契約奉公人」 であった、という表現をつかうかもしれません。 しかしながら、17世紀から18世紀に起こった事実のほとんどが、アイルランド人奴隷を家畜のように扱ったという、残酷な事実以外のなにものでもありません。
アフリカ奴隷貿易はちょうど同じ時期に始まりました。 その事実は、詳細に渡り、くわしく記録されています。 この記録によると、アフリカ人奴隷は、当時毛嫌いされたキリスト神学に汚染されていないということで、アイルランド人よりも高い金額で取引されており、アイルランド人奴隷よりもはるかにいい扱いだったということです。
アフリカ人奴隷は、1650年代後半、とても高価(50ポンド)なものでした。 アイルランド人奴隷はというと、5ポンド以下のとても安価に扱われていました。 もし、主人が奴隷を殴ったり、やけどを負わせたり、死に追いやったとしても、犯罪にはなりませんでした。奴隷を殺してしまうことは、その主人にとって金銭面で不利益ではありましたが、より高価なアフリカ人を殺すよりも、はるかに安いものでした。
イギリス人の主人達は、自分達の個人的な満足や大きな利益の為に、アイルランド人女性達を飼育し始めました。 また、その子供達は主人の無償の労働力となり働きました。これは、主人達にとって、大変使い勝手がよかったようで、何らかの形でアイルランド女性が自由を手に入れることができたとしても、彼女達の子供は奴隷として残されました。 結局のところ、アイルランド人の母親達は、自分達が奴隷解放されたとしても、めったに、子供を残して出ることはなく、奴隷として残っていました。
当時、イギリス人は、市場シェアを高めるために奴隷女性 (多くの場合、12歳) をよりよく利用する方法を思いつきました。 :イギリス人入植者達が、アイルランド人女性 (子供も含め) とアフリカ人男性を更なる奴隷を得る為に、飼育 (交配) し始めたのです。 この交配により生まれた、新しい奴隷 「ムラート」 はアイルランド人達よりも高値で取引されるようになりました。 また、入植者達は新しいアフリカ人奴隷を購入するよりも、ムラートを購入することで、お金を節約することができました。
このアイルランド人女性とアフリカ人男性の交配は、数十年続き、広範囲に広がっていきました。 その後、1681年、「販売目的で、アイルランド人奴隷女性とアフリカ人奴隷男性に子供をつくらせることを禁止する」 という法律が施行されましたが、それは、単に、膨大な利益を得ていた奴隷貿易会社をの収益を止める、というのが目的で施行されたものでした。

イギリスは、この残酷なアイルランド人奴隷貿易を100年以上にわたり続けました。 記録によると、1798年のアイルランド暴動後も、何千ものアイルランド人奴隷がアメリカやオーストラリアへ売られています。
長年に渡り、アフリカ人とアイルランド人への残酷な人権侵害が行われました。 あるイギリス船では、船員たちの為の、大量の食べ物を積んでいたにも関わらず、1302人もの奴隷が大西洋に投げ出されたという記録も残っています。
ここで少し疑問がでてきます。 アイルランド人奴隷は、アフリカ人奴隷が経験したそのものと同じような、恐ろしく残酷な奴隷経験をしたのでしょうか。 また、東インド諸島西部で見られるブラウンカラーの顔の色はアフリカ人とアイルランド人の祖先の組み合わせから来ているように見えませんか。
1839年、イギリスがようやく、自身が参加していた地獄への使者という役割の終焉を決め、奴隷貿易を廃止しました。 この決議の間、海賊は奴隷貿易廃止を拒んでいましたが、新しい法律の制定は、除々に、この悪夢という名の 「アイルランドの悲劇」 を終焉へと導きました。
もし、誰か、奴隷とされていたのはアフリカ人だけであったという人がいるのであれば、それは完全に誤りです。
アイルランド人奴隷は、私達の記憶から消してはいけない、悲劇の事実です。 しかし、どこでこの事実が公表されているのでしょうか。 学校で教わりましたか。 歴史の教科書のどこにその記載があったでしょうか。 どうしてめったにこの話題に触れられないのでしょうか。
数えきれないほど多くのアイルランド人犠牲者の記憶は、誰にも知られていない私のような筆者から語られていいものなのでしょうか。 彼らの歴史はイギリス海賊が意図して、あたかも起こっていなかったことのように、完全に消しさったものなのでしょうか。
これまで、アイルランド人犠牲者の誰も、その痛々しい体験を母国に帰って語りませんでした。 彼らは時間と偏った歴史書が都合よく忘れた、失われた奴隷達なのです。
「日本人 in Blighty」 さんのブログより
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