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憂歌団

2008.08.25.Mon.22:24
俺の中の深い所にある Blues の1つやなぁ。
日本語で歌う Blues が体に沁みるんよな。
尾関ブラザーズの精神を受け継いだ憂歌団ってとこかな。
唄わせてもらってます。

初期の憂歌団は泥臭くてBluesや思いますわ。
大阪、阿倍野、憂歌団って感じやなぁ。
プロデューサーが替ってからは歌謡曲ちゃうんかな?

それにしても、木村秀勝と内田勘太郎の出会いが無ければ
無かった訳やし、内田勘太郎が木村秀勝の才能を発見しなければ
憂歌団ってものが無かったってことが一番凄いことだったりして・・・。



1969年、木村、内田、島田の3人が大阪市立工芸高校に入学。
「うしろの席の奇妙な声の少年から声を掛けられ、振り向くと
人の好さそうなにきび面の少年が笑っていた。」(勘太郎 談)
木村、内田の出会いである。

1970年、初ステージは大阪市立工芸高等学校の文化祭のステージ。
学校の文化祭に出る時に名前が必要だとはたと気付き勘太郎が考えた。
「ブルース・バンド」の邦訳で「憂歌団」と命名。

1972年、高校卒業後、阿倍野の喫茶店で定期的なライブを行う。
「高校の卒業式の日、キムラ君と申し合わせてギターを持ち寄った。
卒業式を終えたらその足でそのお店に行く事にしていたのだ。
通学路にあったロック喫茶「モア」の扉を初めて開けた。」(勘太郎 談)

1975年10月1日、シングル「おそうじオバチャン」でデビュー。
赤丸付でチャートインするが、 1週間後に突然「放送禁止Aランク」
の指定を受け、有線放送からも締め出し をくらう。

11月1日、ファーストアルバム「憂歌団」
「鬼気せまるヴォイス、圧巻の ボトルネック、幻の憂歌団その真実とは…」
という、デビューしたて の若いバンドに対するものとは思えないキャッチコピー
で発表された。



1976年、ブルースマン、スリーピー・ジョン・エスティスの来日公演の
前座とバック・バンドを務める。
このときの模様は「Blues Is A-Live」と題されたライブ盤となっている。

1980年、来日したブルースの巨人「マディ・ウォーターズ」と東京、
大阪でジョイントする。

1986年7月、日比谷野外音楽堂で開催されたジャパン・ブルース・
カーニバルに出演。
以後、活動停止まで、同カーニバルには毎年出演した。

1990年、木村秀勝、新大阪のホームで突然、木村充揮への改名を宣言、
一同、面喰らう。
続いて花岡憲二も花岡献治へ改名。

1996年、テレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の4作目において、
オープニングとエンディングのテーマ曲を担当する。
また、その第33話ではさら小僧の歌を盗用するバンドという役で
特別出演した。

1998年、バンドの冬眠を宣言し、同年12月に名古屋、大阪、
東京で最後のコンサートを行った。




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